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生い茂りたいな

書きたいことを書いています。

高校を辞めた自分が普通に生きていけるわけがない

 

 

私は高校1年の9月に高校を辞めました。

いじめがあったとか、先生と不仲だったとか、

特に何か問題があったわけではありませんでした。

(思えば勉強の面では問題しかなかったけど)

むしろ友達は多かったですし、私は少し生意気な学生でしたが先生からも可愛がられていたと思っています。

 

そんな私は、昔から学校というものが、決して得意な環境ではないなと思いながら生きていました。

もちろん小学生の時は裏でいじめが蔓延していたり、無責任な大人に苛立ったり、と学校という小さな社会の中で、生き難い困難や壁は多くありました。

しかしそれは、何も私に限った話ではなく、ほぼ全ての人間に当てはまる事だと思います。

もし私の学校生活において、そのような困難がなかったとしても、きっと私は高校を辞めていたのだと思います。

 

 

私は決して非社交的な人間ではないと思っております。(だからと言ってとても社交的なわけではありませんが)

確かに人見知りな部分はありますが、それでも組織において当たり前に人とコミュニケーションをとり、信頼しあう事の大切さを理解しているつもりです。

 

 

 

ではなぜそんな私は、高校を辞めたのか。

 

 

正直、私自身もよくわかりません。

とにかく学校という社会が嫌いだったのでしょう。

具体的に理由を述べることは難しいのですが、とにかく得意な場所ではなかった。

 

ある日もう本当に嫌になってしまい、高校を辞めました。

私は生まれ変わってもきっと高校に通うという当たり前のことが、できない人間なのだと思います。

ですから、高校に3年間通われて卒業された方を、心底尊敬します。

もうそれだけで、これからの人生当たり前のように生きていけるじゃないか。

高校に通えたなら、なんだって出来るじゃないか

ということを私は常に思っています。

 

 

一方私はというと、そんなみんなが当たり前にやっていることが、できなかった人間。

その時点で私は他者より圧倒的に劣っているんだと思っています。

だからこの先の人生もきっと、みんなが当たり前に出来ること、やっていることが、きっと私には出来ないのだろうなと思っています。

 

 

それはとても残念で悲しいことです。

私もみんなのように当たり前のことができる人間でありたかった。

でも私には出来ない。

なぜ出来ないのかわからないけれど、もうきっとこの人生ではそれが出来ないんだと思います。

 

 

出来ないからといって嘆き悲しんでいた時期も確かにありましたが、

仕方がないから自分に出来る生き方をするしかないな、と

今はある意味では前向きになれています。

 

 

 

 

 

 

 

 

与えられた事は全力でやる人



はい、それは私ですね。


徹夜だってするし、多少の金銭が飛ぶ事は厭わない。

時間はもうめちゃくちゃかけます。


その課題が、本当に自分のやりたい事なのかどうかは関係なく、

もうその点において思考なんてものはなく、

ただひたすらに課題を全力でこなす。



しかしタチが悪いのは、それに対する金銭的対価がなくてもやるって事。


いや、好きな事だったら逆にお金を払ってでもやりますけど、

やりたくない事に対してもお金払って相当な時間かけてやるって、しかもリターンはない。



でもね、やっぱりどんな課題でも、一生懸命やった時の達成感は凄いものですよ。

しかもそれが誰かから評価された時は凄く嬉しいです。




でも、私、思ってしまったんです。



あ、これ危険なやつだ。

って。



何が危険かというと、

誰かから与えられた課題に対しては全力でコミット出来る。

何だか素晴らしく聞こえますけども、

これが会社のタスクだったらどうでしょう。

リターンが少なくとも残業も厭わず働きまくる。

上司にやれと言われた事は問答無用で全力で取り組む。



いや別にそれでいいならばそれでもいい。



けれど、じゃあお前は、自分で課した課題に対しては全力で取り組めているのか?



と自分に問うた時、答えはノーだった。




私はこの点に危機を感じて。




私という人間は一生支配され続けて生きるのだと。



やれと言われた事が、好きかどうかやりたいかやりたくないかもわからないけど、とにかくやる。

まずこの点において思考停止。


その割にやりたいと思いたった事には全力を注がない。

余計な事を考えちゃって結局やらない。




やべーな自分。

あー、ブラック企業で働いても一生懸命やってる気になってやりがいとか感じちゃうタイプね。





最近、自分が全力でコミットした課題を放棄した人がいた。



彼はきっとその課題をやりたくなかった。

だからやらなかった。

この課題をやるぐらいなら、自分はこの組織から抜けるという決断をした者だ。



彼のその選択に対して、色々意見はあるものの、

私よりも相当マトモであり、そして正直であるなと思った。

彼はもしかしたら、自分の生きたいように生きる人生を獲得するのかもしれない。



と思った。




私には与えられたものに逆らう勇気はない。

だから今まで通り全力でやるつもりだ。



でも、自分で課した課題にはもっともっと全力で取り組もう。

そこに金銭的なリターンがなくとも、

たとえ出費の方が多くとも、たとえ無駄だったとしても。

だってそれは自分のやりたい事なのだから。




いい人と一緒にいた方がいい

に決まってるんですよね。


もちろん、どんな人をいい人と思うかなんて人それぞれだし、

自分にとって有益だからいい人だって思ってるだけなんだろうけど。



でもやっぱり、みんなに好かれるタイプの人って必ずいるし、

そういうタイプの人と一緒にいると、

なんだか自分もいい人になれてる気がして、心穏やかにトークが出来る。



でもそれが、ひねくれてたり、人の悪口を平気で言ったり、スレてたり、気遣い心遣いが出来ないような人と一緒にいると、

やっぱり人間ってどうしても、その人の影響を受けてしまうと思う。



強靭な精神を持って何が起きようと自分を保ってられる人間でない限り、

環境によって自分というものが形成されると思うから、

だから一緒にいる人を選ぶ事は大事なんだと思った。



私は一緒にいたいと思える、尊敬出来るような人と一緒にいたい。

みんなと一緒という思考

 

 

は非常に危険だと感じているよ。

 

みんなと一緒の靴が欲しいとか

みんなが新しい裁縫道具を買うから、私も新しいものが欲しいとか

みんなが可愛い自転車を持っているから、私も欲しいとか

みんながゲームをやっているから、私も欲しいとか

 

みんなが○○だから、私も

 

ってこれはつまり、みんなと一緒がいいってことだよね。

 

みんなと一緒は安心するし、みんなと一緒は優越感があるよね。

 

それが楽しいことだったらまだいいんだよ。

 

でも、その○○がいじめだったらどうだろう。

 

みんながあの子をいじめるから、私も一緒にする。

 

わかってるよ。そんなことは間違っているよね。

 

でも私は、そういう人間だったな。

みんなと一緒に安心しきっていた。

みんなと一緒じゃない時は悲しくて、辛くて、しにたかった。

だからみんなと一緒になれた時は、嬉しかった。

 

 

でも大人になってあの頃を振り返って思う、あの頃の自分に言ってやりたい、

 

「みんなと一緒なんてクソくらえ」

 

って。

 

 

愚かで弱くで醜くてズルイ。

 

学校なんてものは小さな社会のようなもんで、

この学校で自分がどういう行動をするかって、

もうその後の人生の全てを物語っているんじゃないかって思った。

 

 

いじめられていた子を見て見ぬ振りせずに助けたやつは、

きっと大人になって、電車で席をゆずるような大人になるんだろうな。

 

そしていじめを見て見ぬ振りをした傍観者は、

席をゆずるべきことに気付きながらも、

結局しないでいる大人になるんだろう。

 

 

 

私は自分の中から徹底してみんなと一緒を捨てたいと思う。

 

 

 

記憶が飛ぶぐらい笑ったあの日




本当に、今自分がどこにいるのか、一体どれくらいの時間がたったのか、分からないぐらいその世界に入り込んでしまった経験ってありますか?


私は何度かあります。


その中で一番印象に残っているのは、
お祭りの終盤に友達とシャボン玉で遊んだ時でした。
本当に楽しくて、周りが見えなかった。
親が帰ろうと催促してきても、無視をした。
だからその日私は歩いて帰るはめになった。



とにかく、本当にあの瞬間、とても楽しかった。



でも最近の私はなんだろう。

なにか新しい事を始めれば

上達するのかな....
役に立つのかな....
あの人よりも出来るようになるのか....
これやって何のためになるのかな....


そればっか
ずーっとそればっか
そればっかで、だから結局辞めちゃう



違うじゃん

確かに
生きていくためには
役に立つ何かをして
お金稼いで
生活しなきゃいけない
そんな事はわかってる
でもそれは
それは最低限必要な事であって

私が心の底からやりたいって
身につけたいって
かっこいいあの人みたいになりらいって
とにかくやりたいんだ
楽しい
って思ったことは
たとえ何の役にも
一銭の価値にもならなかったとしても
やればいいだろうが


ゲームだってさ
昔は楽しくやってただろう
この時間は無駄だなんて考えてなかっただろう
無駄だと言われようがなんだろうが
ひたすらやり続けてただろう

何でだ?

楽しかったからじゃねーか




私は生きていく上で最低限必要な事のせいで
その他全部を犠牲にしてしまってたんだ



いや違う
全てが生きていく上で必要なことだ
そうだ
そうだったじゃないか




何で大人になると大事なものを見失うんだ
何でだ
何でだよ


私は取り戻せるのか?

取り戻そう


そして最高に楽しい大人になる



最近、歌詞がついてる歌がウザいと感じる

 

んですよね〜・・・・

こっちは今違う思考をしてんねん!邪魔すんなや

しかも偉そうに何ワシに語りかけてくんねん

お前にワイの思考を支配されてたまるかいな

 

って思っちゃうんですよね。

あー、あかん、わい22歳にして早くも頭の凝り固まったクソジジイになってら。

 

 

ひえぇぇぇどないしよ。

 

 

でもねわい、音楽流しながら作業するの好きなんですよ。

 

本とか読んでる時には流石に音楽流さないですけど、

ちょっとパソコンで作業したりするときとか、

家で一人じゃないですか。静かじゃないですか。寂しいじゃないですか?

だからいっつも好みの音楽流してたんですけど、

 

最近なんだかそれがうるせぇんすよ。

 

別にあれっすよ。音が流れてること自体がうるさいんじゃなくて、

言葉がうるさいんです。

思考の邪魔をしてくるんです。

入り込んでくるんです.....

 

 

だから、いや、そもそも

作業する時に音楽聴くなやって話ですけど。

 

 

そこでね、私、クラシック音楽を聴くことにしたんです。

 

 

クラシック音楽は素晴らしいよ。

 

思考を全く邪魔してこない。

なんていうか、心に訴えかけてくる、感覚的な何かは感じますが、

それは不思議なぐらい作業の邪魔をしません。

 

 

ってことに今更気づいた私でした。

日銀がお金大量に刷って借金返せばいいじゃん!←コレ反論出来る?



みんなは出来るだろうか?


というのも先日、大学の期末試験があった。

その時に、タイトルにあるような問題が出題されたのだ。



よく見るくだらない問題ではないか。

こんなものは中学か高校の、政治経済の授業で絶対に習うはずだ。

いやもはや、習わなくても感覚的にわかるものなのか?


そんな事は知らないが、とにかく良識ある大人なら必ず知っているに決まってる。

もはや知らないなど恥、そんな事も知らないでよくもまぁ息を吸って吐き出せているものだなと思うぐらい低レベルな愚かな問い。

つまり愚問。




しかも、曲がりなりにも経済学部生である私が、答えられないわけがない。

もしこの問いに答えられないのならば、お前は今すぐに経済学部から立ち去るべきだ。

国際留学アメリカンニューヨーク幸福の科学ビジネス英語学部英語学科に転部すべきだろう。




そんな私が書いた答えとは





「まず、お金が増えれば、海外のモノを大量に輸入する。なぜなら、金があればいいモノを買うからだ。毎月5万円の稼ぎであれば、それに見合った、しまむらのバッグを購入するだろう。だがもし仮に月給100万円だとしたら、しまむらのバッグを買うだろうか?答えはNOだ。人は迷わずCHANERのバッグを買うだろう。もちろんそれは、金があるからだ。このように人間は金があれば、よりいいモノを買おうとする。日本産ベーコンをゴーヤチャンプルに入れるより、スパムを入れた方が圧倒的に上手い。だから人は輸入する。金が増えれば、その量に比例して輸入量も増えるだろう。そうすれば何が起こるだろうか、答えはデフレーションだ。海外からいいモノが入れば、もちろん人々はその製品を購入するだろう。金もあるしな。そしてやがて日本の製品は全く売れなくなり、価値が下がってしまうだろう。つまり、デフレスパイラルに陥る。そうすれば日本の産業は衰退し、結果として日本の産業や経済における自給率的なあれが、下がってしまう。だから、お金を大量に刷ればいいというわけじゃない」





だ。



実は私がこの問題を見た瞬間、冷や汗を書いた。


「やべぇ、わかんねぇ。」



そう、私はわからなかった。

この愚問とも言うべき問いに答えられる根拠も知識も全くなかったのだ。



だがしかし、問いに対する答えに根拠はいらない。

必要なのは、圧倒的自信とそして論理力だ。



見る者に「なんだか、その通りかもしれないぞ?」と思わせるために必要なことは、この2つだ。




そう、自信と論理力。




だがここで問題が起きた。


私には圧倒的に後者の能力が欠如していた。



 だから私は、前者の自信だけを使って書くしか方法がなかったのだ。

とにかく気合で書いたが、ボキャブラリーすらも私を助けてはくれなかったので、とにかく説得力がありそうに見える「のだ」や「なのである」とか、なんとなくロジカルっぽく見えそうなので「なぜならば」を使ったりもしてみた。


そして今知った驚愕の事実がある。

先程シャネルと携帯で打とうとしたら、

ローマ字書きで表示された。

CHANELって。



えええっっれえ

シャネルって最後Lなんですかああっs

Rちゃいますのおおおおん

CHANER書いちゃったやないですかああ




私は愚かだった。あらゆる面で愚かで見苦しく生きるに相応しくない人間だ。

私は今すぐにでも転部、いやもはや幼稚園からやり直したい。もちろんインターナショナルスクールで。



きっと私はこの授業の単位を落としただろう。

そして教授はこう思ったはずだ、

「こんな事を書くこんな学生が存在するこんな大学で働く俺負け組ワロタ〜www」

すまない。

私のせいで我が大学全生徒がバカだと思われただろう。

それだけでなく、教授のプライドまで傷つけてしまった。

私にはもはや単位を貰う資格などないのだ。




(終)




追伸

私はその後ちゃんと調べて正確な答えを知りました。

人は失敗から学ぶんだなぁ。